きっかけ
自分の病気がきっかけで、今まで見向きもしなかった領域を知ってしまった。人生の大転換。そして、想像もつかないほど深い深い領域に踏み込んでしまった。これは大変なことになった。
無知
私には大学病院の消化器外科で第一線を守ってきた自負がある。大学でかなり濃厚なトレーニングを受けてきた私に、怖いと思う手術はない。西洋医学一辺倒の頭脳にとって、医学は常に最新で最先端であるべきなのは当たり前。その対極にあるような伝統医学などという非科学的な領域は、まじない程度のもので効くわけもないと、どちらかと言えば馬鹿にする風潮がある。仮に漢方などに興味があっても、おおっぴらに「興味がある」とは言えないような空気が当時の医学界にはあった。「漢方薬?ハリ?そんなもの効かないでしょ。ただの草になんの作用があるんだろう。効いたとすれば、気のせいだ。そんな薬飲んでいるから具合も悪くなる。漢方をやめなさい。」これは私が実際に患者さんに言い放った言葉だ。今の私なら、一言、「傲慢無知な医者だ」と当時の自分に言ってやりたい。なぜなら、私はこの伝統医学に命を助けられている。実体験で、その凄さを知ってしまった。
サインはいつもそこにある
漢方薬との出会い
医者になってすぐに「神業クーパー」(クーパー:外科用ハサミ)遣いの教授がいる外科学教室に入局した。この教授のクーパーにかかれば、どんな手術でもとても簡単に見えるので、教授の手術を見るのが楽しかった。私が大好きな教授はまた、漢方遣いでもあった。
教授はいつも難しい漢字で書かれた薬を出していた。日本語?漢文?わからん。ちんぷんかんぷん、全く読めない。
研修医はまさに3K(汚い、きつい、危険)の仕事で、昼も夜もなく、馬車馬のようによく働いた。よく過労死しなかったものだ。当時は労働基準法も及ばない奇跡的な領域だった。研修医は、外科技術や治療など習うことが多すぎ、勉強やこなすべき義務・雑用・緊急手術が多すぎ、飲むお酒の量が多すぎで、大変だが充実した忙しさだった。だから、当時の私には漢方薬まで手が回らなかった。せっかく漢方領域の最高の師匠がいらしたのに、私は漢方なぞ知らなくても手術患者を助けられればそれで充分だ、と思っていた。
鍼灸との出会い
何を思ったのか、私が医学部に入って間もない頃、50過ぎていた母が急に鍼灸学校に通いだした。しかもかなりハマっていた。
「ふーん、そんなもの効くのかねぇ。」
科学の最先端を習っているという自負がある私は、非科学で古臭く怪しい領域を軽蔑していた。
だが、母が患者や家族の治療で効果を上げる度にいちいち報告してくるので、そういう世界もあるんだと徐々に受け入れるようになった。
そして医者3年目の時に、鍼灸を知る機会が訪れた。
「手術でとても体調が良くなった」と、担当した患者さんに大変感謝された。
「先生、ハリは興味はありますか?」
患者さんは80歳をゆうに超えていたが、背筋がぴんとしていて、物静かで上品で頭脳明晰、若造のわたしにも大変丁寧な物腰の方だった。この時に初めて、この患者さんが実は首都圏の某鍼灸師会の偉い方だったことを知った。
母もハマったことだし、きっと何かあるんだろうな。
「もちろんです。治療に関わることは、みんな興味があります。」
「では、先生のお陰で元気になったことですし、運動がてらに週一回病院に通って教えますね。」
こうして、ご高齢にもかかわらず暑い日でも週一回、勤めていた病院まで3ヶ月に亘って来てくださり、直接手ほどきを受けることになった。
「ここが合谷、こういうふうに取ります。作用は。。。」
この調子で、一穴一穴丁寧に教えていただいた。
外科医なので解剖は熟知しているし、どの深さに何があるかもわかっているので、メキメキ上達した。
問題は忙し過ぎたことだった。この時はほぼ毎日手術を執刀させてもらえて外科医としての経験値が上がっていた時期だった。ほとんど家にも帰れず当直室を自分の別宅にしてるほどで、心身・肝臓ともに研修医以上に忙しく充実していた。
次第に、週1時間の個人講習会すらも受けられないほど忙しくなってしまい、泣く泣くお断りをすることになった。
自力で3年
日本に帰ってきて、3年が経った。
この間に、たくさんの症例を経験させていただいた。
自力で4年間頑張った。
お陰様で経験値も相当上がった。
治療に対する反応は上々、思った以上だ。
やっぱり古典中医はすごいと実感した。
患者が元気になっていく、その笑顔を見るのが好き。何よりも励みになる。
次の3年は、また新しい3年になる。
階段をもう一段上がった。
引き続き頑張っていこう。